2013-06-26

アウシュビッツ強制収容所に行った話

クラクフ(Krakow)からバスで約2時間。オシフィエンチム(Oswiecim)にあるアウシュビッツ収容所跡に行った。正確にはオシフィエンチム博物館という。

クラクフの旧市街があるほうと反対側にバスターミナルがある。

夏で人も多かったから前日にバスのチケットを買っておいたけど、朝早めの便はそこまで混んでいなかった。行くならば朝早めに行った方がいい。午後になると人がさらに増えて、帰りのバスも乗れないくらい人が集まるから。片道13ズウォティ(PLN)(約312円 ※1PLN=24円)

至って普通のバス。帰りのバスの時間が、行きのバス内に書いてあったから確認。


館内はガイドが一緒ではないと見学することができない。残念ながら日本語のガイドは常駐していない為、この博物館とは別に個別で雇って手配するしかなく、ある程度お金がかかるため行く日本人を集めて料金をシェアするというのが割と定番らしい。
今回は探す時間もなく、英語ガイドと入り口に売っている日本語のガイドブックを購入して参加。チケットは40PLN(約960円)、ガイドブックは5PLN(約120円)。
開館時間は季節によって異なるためHPを確認した方がよい http://en.auschwitz.org/z/

1つのグループは15人くらいだったと思う。英語以外にも数カ国語は対応するグループがあったが、何語に対応しているかは忘れた。しかしとにかくそのグループがほぼ一緒に動くので本当に人が多い。

ここは本当に収容所、そして不条理な虐殺所として利用された場所。色々な展示や説明を見た。ツアーの最後にガイドのポーランド人の女性が「訪れてくれてありがとう。この場所の話を自分の周りの人たちにどうか伝えてください」と言っていた。自分は自分なりの思った事しか書けないけど、写真もあるし、ここから先に色々載せようと思う。

入り口。強制労働に行く人が毎日通ったところ、収容所の人で結成された音楽隊がいた。

並ぶ収容所。

ユダヤ人だけが強制収容されていたのかと思っていたが、ポーランド人、ジプシーなども収容されていた。


列車で各地から到着した人たちは、すぐに労働できるかできないか選別されて、労働できない人はそのままガス室へ送られた。この写真はガス室に送られているところだ。子ども、女性、赤ちゃん。

毒ガスをつくりだすチクロンBの空き缶。ガス室に入って15-20分で皆亡くなった。

収容所に送られて来た人たちの持参品は取り上げられ、高価な物だけドイツに送られた。残った物はほとんど焼かれたけど、それでもまだ残っていた遺留品がある。


囚人服。替えがない、洗濯できない、それで伝染病も流行した。

1日の食事。ほとんど腐った食材で作られたため弱った人たちは栄養失調で亡くなった人もいる。

死の壁と言われる場所。ここで沢山の人が銃殺された。

隣にある建物の窓には死刑執行を見られないように木の板がつけられていた。
これの近くに集団絞首台もあった。収容所の存在を知っている周辺住民による救出作戦もあったらしいがそれがばれて、集団絞首台に送られた人もいる。当時は反ナチス勢力が収容所内であったり、文化活動や創作活動も密かに行われていたとのことだ。当然あるものなのかもしれないが、この状況下でと考えると信じられなかった。

敷地内に張り巡らされている電気が通った有刺鉄線

焼却炉。1日350人の遺体が焼かれた。

ここまでみて、次はバスに乗って収容所2号に向かう。ものすごく広い。

収容される人が運ばれた列車。身動きできないほどつめられて、運ばれ、灯りは先頭についた小さな窓だけ。


収容された女性が暮らしたところ。馬小屋を改造してつくったため、床は土。3段ベッドの1段に8人ずつが腐った藁を敷いて寝ていた。真ん中に暖房があるが、床の一番下の人は火傷しそうなほど熱く、上の段は寒すぎて眠れないと言っていた。

トイレ。冬は寒かったからここの掃除が一番人気のある労働だったと、人気もなにもないけど。

ここでツアーが終了。バスでまたクラクフまで戻った。ツアーはだいたい3時間くらいだった。

施設内にある色々な写真を見ると本当に辛かった。働けなさそうな年寄りと、赤ちゃん連れの母親はすぐにガス室で殺された。自分の家族で置き換えると半分が即日いなくなる。
妊婦は実験台として使われ、ガス室で殺されるよりももっとひどい殺され方をしたそうだ。旅行当時、自分の友達で妊婦さんが数人いたので、考えるだけでぐったりした。
きっと訪問者のほとんどがそういう想像をするのではないか、各国著名人も沢山きている。こんなに沢山の国から沢山の人が訪れているのに物事が風化していくのはなぜなのか。自分の大切な人が殺されたくないというだけで戦争反対する理由にはならないのだろか。

この場所で150万人が殺害された。ガイドの人が言っていた「この場所のことを周りの人に伝える」ということがとても難しく感じる。
色々な施設として残っているが、そこにいた人の表情や声を想像することは私には難しく、本当に残酷な事が行われたという事実は多少知ってはいるが、それが自分の中でリアルじゃないというか。「人間は残酷になれる」「二度と繰り返してはいけない」来ていた人がつぶやいていた感想、それは重々そう思うのだが、それだけじゃないのじゃないかと。(言っていた人の真意は知らないけど)私にとってはそうやって来てすぐにそういう感想を言えるような簡単な場所じゃなかった。
もっと考えて、もっと知らないといけないと思ったし、もはや戦後ではなく戦前と言われるなかで、身の振り方も考えなくてはいけないだろう、そのうち。繰り返してはいけないけど、繰り返されるのはなぜなのか、結局わからないままだ。そうやってもやもやもやもや考えて、でも戦争の事なんて普段道歩いている時にふと考えないから、要は考えるきっかけの1つになったのならば私にとっては良かったのかなと。ブログに書く事で自分の意見を伝える事ではなくて、誰かがふと考えるきっかけになったらいいのかなと。そして私たちは考え続けなくてはいけないのだと思う。









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1 件のコメント:

  1. 読ましてもらいました。
    自分も同じようなことを思います。

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