ホイアン(Hoi An)から午後2時ごろのスリーピングバスに乗り、フエ(Hue)へ出発。出発したらすぐに大雨になった。途中でダナンにより、さらに北へ。約4時間でフエの街に到着。
フエは水に囲まれていて、夕暮れ時が美しかった。
宿の隣の屋台でご飯を食べると、そこのお母さんがすっごく優しく超片言の英語で話してきて、嬉しかった。ベトナムは物価が安いので、いつも店に入っていたため屋台飯を食べたのはこれが初めてだった。なぜかにんにく丸呑みを勧められ、食べたらすごく刺激的な味で屋台のこういうよくわからない感じが好きだと思った。
フエからバスでいけるところに、フォンニャ=ケバン国立公園というのがあり、そこに天国の洞窟と呼ばれる鍾乳洞がある。そこへ行こうかなーと思っていたのだけど、ホーチミンでクチトンネルを見てから、ベトナム戦争に関わる何かをもう少し見たいと思っていたので、DMZ(非武装中立地帯)ツアーに参加することにした。
宿で申し込みをし、400,000ドン(約2,000円 ※2万ドン=100円)。英語ガイドと入場料込み。
DMZは第一次インドシナ戦争(北ベトナムとフランスの戦い)でフランス軍が撤退した後に暫定的に決められた軍事境界線。北緯17度線から南北2kmは非武装中立地帯となり、南北統一のための選挙を行うように決まっていたが、アメリカと南ベトナムが拒否し、さらなる戦争へと進んでいったって感じ。この時暫定的だったけれど、結局戦闘が激化してずっと南北を分断する場所になってた。
そう思うと今平和に見えるベトナムとから、どんなことが起こっていたか想像もできない。
ツアーでは最初にロックパイルと呼ばれている山をみるところから始まる。ロックパイルはアメリカの監視塔になっていたところで、この周辺の山ははげている、もしくは草木がまだ若くあまり育っていないところが多く、それは全てここに爆弾が落とされたからだという。
今ははげた山にタピオカを植えて生計を立ていると言っていた。
ベトナム戦争が終わった後、この山の上にはベトナムが取り返したという意味でベトナムの国旗を掲げたそうだ。それが今でも残ったままになっている。相当拡大しないと見えないけど、確かに旗はあった。
そしてホーチミンルート。北ベトナムがラオスやカンボジア領内を通り、南ベトナムへ渡るため、そして南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への物資などの補給のためのルートとして使われた。
そしてこのホーチミンルートを破壊する目的で、アメリカ軍がつくった北ベトナムに最も近い基地がケサン基地。今は使われていないで博物館になっている。ここでの北ベトナムとの戦いには勝利したが、結局維持できないとかで基地を手放したらしい。いきなりこんなところに基地作るとか、恐ろしい。
当時のエアフォースが残されている。
今はコーヒーの産地で結構有名らしい。近くでは結婚式が行われていて、永遠とカラオケしている音が聞こえていた。平和な時間と比べると戦争の意味ってほんとないと思う。
バスから降りることはなかったが、当時の橋もまだ残る北緯17度線の国境
続いてヴィンモクトンネルへ。ここは戦闘が激化する中、戦火を逃れるために住民がつくった地下街。最大で地下23mも掘ったそうだ、しかも重機なんてない中でだから、相当なものだと思う。ここはクチトンネルのように兵器を作ったり罠を仕掛けたりする場所で吐くて、本当に住民が住むための場所だったようだ。
ガイドの人に連れられて中へ。
中は163cmの私がちゃんと立って頭が天井につくくらい、階段があったり、排水溝があったり、シャワールームがあったり。家族ごとの部屋もあった。
ここに6年も住んでいたらしい。その間に生まれた子供は17人。今いったい何をしてるんだろう。一旦外に出るとそこは海で、この外からの空気が入る場所に、出産する病院をつくっていたとか。
真っ暗だし、多分当時はもっと暗かったであろう、蒸し暑いし息苦しい。暮らしていたと思うと信じられない思いだった。
最後にベトナム戦争の戦没者のお墓を訪れてツアーは終了。このお墓の近くにも捨てられた戦車がまだ残っていた。
ベトナムって決して陽気な雰囲気ではないんだけど、少し無愛想ながらも人は優しくて、過ごしやすいと感じるんだが、改めてこういうことがあったんだと思うと、その時期も踏まえてどうやって生きてきたんだろうって思う。人間はそういう環境にうち勝つ能力があるのかもしれないけど、そもそも何も起きなければいいのにね。ベトナム戦争は流れを見ていても、いろんな国が大義名分掲げて戦ってるところもかなり多いと感じる。あの当時反戦運動がすごかったというけれど、その時反戦って思っていた人たちはどこに行ったんだろう。歴史が繰り返されようとしていると感じるこの頃、いろいろ考えることは多い。
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フエは水に囲まれていて、夕暮れ時が美しかった。
宿の隣の屋台でご飯を食べると、そこのお母さんがすっごく優しく超片言の英語で話してきて、嬉しかった。ベトナムは物価が安いので、いつも店に入っていたため屋台飯を食べたのはこれが初めてだった。なぜかにんにく丸呑みを勧められ、食べたらすごく刺激的な味で屋台のこういうよくわからない感じが好きだと思った。
フエからバスでいけるところに、フォンニャ=ケバン国立公園というのがあり、そこに天国の洞窟と呼ばれる鍾乳洞がある。そこへ行こうかなーと思っていたのだけど、ホーチミンでクチトンネルを見てから、ベトナム戦争に関わる何かをもう少し見たいと思っていたので、DMZ(非武装中立地帯)ツアーに参加することにした。
宿で申し込みをし、400,000ドン(約2,000円 ※2万ドン=100円)。英語ガイドと入場料込み。
DMZは第一次インドシナ戦争(北ベトナムとフランスの戦い)でフランス軍が撤退した後に暫定的に決められた軍事境界線。北緯17度線から南北2kmは非武装中立地帯となり、南北統一のための選挙を行うように決まっていたが、アメリカと南ベトナムが拒否し、さらなる戦争へと進んでいったって感じ。この時暫定的だったけれど、結局戦闘が激化してずっと南北を分断する場所になってた。
そう思うと今平和に見えるベトナムとから、どんなことが起こっていたか想像もできない。
ツアーでは最初にロックパイルと呼ばれている山をみるところから始まる。ロックパイルはアメリカの監視塔になっていたところで、この周辺の山ははげている、もしくは草木がまだ若くあまり育っていないところが多く、それは全てここに爆弾が落とされたからだという。
今ははげた山にタピオカを植えて生計を立ていると言っていた。
ベトナム戦争が終わった後、この山の上にはベトナムが取り返したという意味でベトナムの国旗を掲げたそうだ。それが今でも残ったままになっている。相当拡大しないと見えないけど、確かに旗はあった。
そしてホーチミンルート。北ベトナムがラオスやカンボジア領内を通り、南ベトナムへ渡るため、そして南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への物資などの補給のためのルートとして使われた。
そしてこのホーチミンルートを破壊する目的で、アメリカ軍がつくった北ベトナムに最も近い基地がケサン基地。今は使われていないで博物館になっている。ここでの北ベトナムとの戦いには勝利したが、結局維持できないとかで基地を手放したらしい。いきなりこんなところに基地作るとか、恐ろしい。
当時のエアフォースが残されている。
今はコーヒーの産地で結構有名らしい。近くでは結婚式が行われていて、永遠とカラオケしている音が聞こえていた。平和な時間と比べると戦争の意味ってほんとないと思う。
バスから降りることはなかったが、当時の橋もまだ残る北緯17度線の国境
続いてヴィンモクトンネルへ。ここは戦闘が激化する中、戦火を逃れるために住民がつくった地下街。最大で地下23mも掘ったそうだ、しかも重機なんてない中でだから、相当なものだと思う。ここはクチトンネルのように兵器を作ったり罠を仕掛けたりする場所で吐くて、本当に住民が住むための場所だったようだ。
ガイドの人に連れられて中へ。
中は163cmの私がちゃんと立って頭が天井につくくらい、階段があったり、排水溝があったり、シャワールームがあったり。家族ごとの部屋もあった。
ここに6年も住んでいたらしい。その間に生まれた子供は17人。今いったい何をしてるんだろう。一旦外に出るとそこは海で、この外からの空気が入る場所に、出産する病院をつくっていたとか。
真っ暗だし、多分当時はもっと暗かったであろう、蒸し暑いし息苦しい。暮らしていたと思うと信じられない思いだった。
最後にベトナム戦争の戦没者のお墓を訪れてツアーは終了。このお墓の近くにも捨てられた戦車がまだ残っていた。
ベトナムって決して陽気な雰囲気ではないんだけど、少し無愛想ながらも人は優しくて、過ごしやすいと感じるんだが、改めてこういうことがあったんだと思うと、その時期も踏まえてどうやって生きてきたんだろうって思う。人間はそういう環境にうち勝つ能力があるのかもしれないけど、そもそも何も起きなければいいのにね。ベトナム戦争は流れを見ていても、いろんな国が大義名分掲げて戦ってるところもかなり多いと感じる。あの当時反戦運動がすごかったというけれど、その時反戦って思っていた人たちはどこに行ったんだろう。歴史が繰り返されようとしていると感じるこの頃、いろいろ考えることは多い。
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